◆第6回 「日本人と心の緑化 その2 モノと心」 |
(平成24年12月27日掲載) |
前回のインタビューの続きになりますが、「カタチやモノ」を通して「日本人の心」を見ていくというスタンスがありました。
でも今やモノがあふれすぎている感じがしますが、その対にある心は満たされているのでしょうか?
今の時代、よい点であり悪い点はどうしても物質的に栄えていく時期だと思いますし、それは、ありがたい時代でもあります。
ただ、モノが一気に増えていくと反対にある「心」は薄まります。
あふれる「モノ」と薄まった「心」。
なんだかバランスを崩しそうです。
それこそ、時代はさかのぼりますが、たとえば弥生時代の銅鐸にしても貴重な資源ですので、つくる時にはものすごい想いをこめるはずです。
木を一本切るにしても、命に変わるぐらいの木なので大切に使おうと思います。
モノを作るにも、モノがない時代には心をこめます。
ただ、それが食べものにしても工場のようなところで製造製品となると、大量生産になりがちです。
なんでも作り出せると思い込んでしまうところから、モノに対する価値、そのモノに対する尊厳が失われると、やはり心がつかない。
そうなるとモノは単にモノでしかなく、そんなモノには、たとえば5年もたせようとか次の子どものために残そうという意識は働かなくなり、伝える力も失われます。
モノが物としてあふれると最後は物に飲み込まれる。 そして、わたしたち人間の存在自体も、モノ扱いが始まると思います。
しかし、本質はモノと心は一体で、この世界はモノと心のふたつがわかちあい、ふたつの面をもって成り立っています。
それらは日本の古い風習、神道の儀式、古代の伝承が伝えてきています。
あふれたモノの分だけ心の充足が必要になってくる時代でしょうか。
物質的な繁栄とともに心を忘れてしまっているとするならば、心を復活させることが求められます。
それには、目に見えないものを尊ぶといった、古代から続く「みこ(巫)」の仕事、あるいは女神がもつ「育む力」が必要になってきます。
物質的な繁栄の中でより発展を願うとするならば、必要なことは、目に見えないものを敬う心。
そして今、さらに日本が伸びようと思うならば、モノとバランスをとる対のもの、つまり心が大事になります。
それこそ弊所が言う、女神のチカラであったり、みこ(巫)的な働きであったり、先人の祈りや自然の営みを支えているものなど目に見えないものに対して敬う心。
忘れてはならないのは日本人の心だと私は考えます。
パワースポットブームはもしかすると、その見失ったものを求めているのかもしれないですね。
でも、みこ(巫)や女神という言葉は、どこかもどかしく、イマイチ、ピンとこないのですが・・・。
キャッチーな言葉、確かに難しいところです。
もちろん、「みこ(巫)」といった時に女性だけをイメージすることがありますが、ただ「巫(かんなぎ)」という字は男性にも使う言葉です。 その場合、やまとことば的には「おかんなぎ」と言ったりします。
まさに「かんなぎ」たる、そのスピリチュアルなものを尊重し、モノも大切にする、そして心や魂を大切にするという感覚。
それがいわゆる、目に見えないものに心を寄せて大切にする「みこ(巫)性」という不思議なイメージをもった言葉をあえて選ぶことで、物質的なものだけにかたよらないことをご理解いただけたらいいなと思っています。
人間には、それぞれに役割があり、個々にそれを発揮できることが大事なのかもしれないですね。
役割ということを考えたとき、ほんとうに一般論にしかすぎないのかもしれないのですが、女性は産み育てるチカラがあるので、結婚して子どもを産み育てるのもいいでしょう。 そればかりか、社会を育てるという育み方で世の中をうまく調整していくのもいいでしょう。
男性は突き進む力で新しい分野を開拓していくというようなことには、長けているかもしれません。
しかし、そうありながらも男性の中にも女性性といったものももっているはずなので、これらのバランスをうまくとられるのがいいのではないかと私は思います。
「日本にとって必要な『みこ(巫)』を育てたい」と仰っておられました。
では、山根所長には今の日本はどのようにうつっているのでしょうか?
現状、目に見えにくいもの、たとえば精神性を伝えるにあたっては、「日本の伝統」という切り口であれば、差し支えないようです。
ただ、少し神道的な話になると、うちは仏教だ、キリスト教だ、ほかの宗教だ、無宗教だということになりかねません。
クリスマスやバレンタイン、ハロウィンをお祝いするわりには、ちょっと主義主張の思想のところになると、耳をふさいだり、気色が違うとピッとはねるというのが、どうやら最近の宗教や信仰にたいする風潮です。
そこに抵触しないで年中行事あるいはおまつり、地域のまつりなどでイベント的にでもいいので、少し形を変え、しかし、ほんとうのカタチはそのまま継承する。
場合によっては、入り口だけ敷居を低くすることをしても、その本来意味している心、基本となるカタチを変えないで伝えていくという努力をそろそろ日本全体が考えはじめるときです。
そうでなければ、根本となるカタチがかわってしまう。
それを取り戻すのは、ものすごく時間がかかりますし、まして一世代途絶えると「伝わる」ということが大変なことになってきます。
もうすでに私たちのひとつ上の世代に伝わっていなかった節があります。 そうなると、私が懸念している事態はすでにおこっている。
ちょうど戦前戦後で途絶えていたとするならば、今、30代40代のお父さんお母さんもすでに知らない。
ということは、ここで二世代あいてしまう可能性があります。
伝える、伝わるという手段ではインターネットもありますが…
そうですね。
今の時代はインターネットもありますので、ネット上にある情報を活かすこともできます。
けれども、インターネット上の情報の多くは不特定多数の方に開かれたものなので、そうだとすると誰にでも使える情報です。
情報の使い分け、あるいは質や核心を心しないと、意味のない情報にもなりかねません。
やはり人の口から、ある想いをもって直接伝え聞くというスタイルは、人として最終的には残していかないといけない。
人の口、つまり語りが重要。 特定のある人から「受け継ぐ」という意識です。
モノが伝えてきたこと、そして人から人へと伝えてきた日本古来の儀式やおまつり、習慣をもっと見直そうということですね。
そういったことを知っている方が地域に一人はいて、その方たちが長きにわたって伝統的なことをリーダーシップをとりながら伝え、あるいは困った時にはその方のお知恵を拝借するというような、ひとつのあるモデルを考えています。
それはどんなモデルでしょうか?
古代のムラでは最低ひとり「みこ(巫)」がいました。
もちろんお年を召されると、いわゆる「ばばさま」と呼ばれる非常に深い知恵と経験をもった女性のイメージですね。
その方々がいろいろなことにアドバイスをしたり、ときには決定したり、あるいは癒したり、よき相談者であり、知恵袋だったということは昔から変わらぬことです。
情報という意味ではインターネットでもそれが可能かもしれませんが、その場で顔を合わせるのとは違いますし、その方にとって果たしてほんとうに重要な情報なのか。
あることについてネットで検索をしても、まったく別の回答、あるいは真反対の情報を得ることもあります。 たくさんあるということはないに等しい。
しかし、目の前の人の口というのはたくさんありません。
やはり、人の口を使って大切なことを代々伝えてきた日本。
これは世界に誇るべきことであり、このチカラが残っている限り、日本という国が物質的に発展をとげようとも、どのような局面を迎えようとも、日本人は日本人だと思います。
声に出して「語る」ということが重要なのですね。
ある人の口から特定の人に向かって話された言葉は、話す側からすると、特定の意味を含んでいます。
伝えるときには、特定の意味を含めることができます。
日本は言霊(ことたま)の国。
これはとても重要なことで、セラピースクール「シーズ」でも生徒さんたちにお伝えするときには、大切なことをこめています。
来年(平成25年)から始まる「日本のこころシリーズ」でも、どうしても伝えていきたい「心」があります。
まずは受講してくださる方々、そしてその周りの皆様に、その「心」をいろいろな角度からお伝えしていきたいと思っています。
次回その3「ほんとうのセラピーとは」につづく
・山根康児インタビュー記事 |